私の大量の制作状況について
   
 
 

絵を描くものにとってモチーフ選びは大切であり難しいのと喜びでもある。
そこに、風景や静物を選んだ人は場所探しや物を組み合わせる材料を集め
独自の画面構成を考えねばならないが、私はそれらに成功を極めている
諸先輩の作品を見て、若い頃はいつになったら自分のテーマを見つけることが
できるのか悶々と悩んでいたので、一水会出品の時は、毎年モチーフを
いろいろかえて模索していた。
20年間も全く同じモチーフでそれでいて作風がどんどん光り輝く、また、
しっとりと奥深い色彩になっていくのを見たとき羨ましくよく同じものを
描けるものだと思ったこともあるが・・
私は人物を描きたかったが勿論、モデルに支払う能力も無く・・
自分を見つめてみると、美大を目指して石膏デッサンを描いていた頃はもともと
ミケランジェロなどの彫刻に惹かれ漫画家志望が中学3年より
画家になりたいと思ったくらいだから、石膏デッサンや裸婦のデッサンは大好きであったが、自分の作品となると何か見て・・写し取るそういう意味での写実が
自分にむかなく・・さりとて前衛的な・・ポップアートまでにはたどりつく事もなく、
とにかく何でも描きたいというタイプではなかったので本当に絵描きになりたいのか?・・
自分を見つめなおした事が何度もある。
そうした折、父の後を継いだ時、数字が苦手な私に数字大好き人間が
教員仲間にいて手伝ってもらった御礼に何かプレゼントしたいと申し出ると、
大学の同窓会に着ていかれるパーティ用の洋服が欲しいと言われ・・
直後に彼女と偶然歩いて見つけたのがこのドレスの生地である。
直感的に、手書きにも似た花模様と何ともいえない色合いが、これを描きたいと閃いて、彼女にオーダーする時、これを描きたいからロングにして、描き終えたら
貴女が外に着て出られるサイズに直してもいいか?と聞き、デザイナーにもそれを告げ、出来上がった時はこれは自分の作品にできると躊躇わず一気に描いた。
イメージがどんどん湧き・・私は洋服もここから自分の作品の一部になってたようで、初めて生地選びからデザインを相談しながら7着ほどオーダーして次の作品に備えたが、出来上がった頃は、同級生にめぐり合ったとかで急に結婚して東京に行ってしまった。
その時私は名古屋での仕事があり、また振り出しに戻った。
先輩のアドバイスで写真はとったもののやはり作品にはできなかった。
その後でヨーロッパの多くを見てまわる機会に恵まれたが、モロッコ・チュニジアの旅行が「これだ!!」と私を今までに無いあふれ出る制作に対する情熱に満たされた。3度目には同じ所に滞在の予定が糖尿がケトン体が出るほどひどく、
ドクターストップと自分でもからだの中に何か危険を感じ断念した。
その時から、胆石も進行していたのだろうか・・
上京して36余の石のため胆嚢を取った。
病気をコントロールするために毎日の運動が必要であったため
絵描きがダンサーもどきに訓練に入ったのである。

 
 


ダンスを始めたのは以前友人に連れて行かれた
名古屋のダンスホールであった。
そこに靴が置いてあったので病院より予約して
退院後毎日6時〜9時まで毎日通った。
何故か最初から男足であって、
女性の服装が色鮮やかなのが目についたので、
そこに男性の相手してくれる人が居るとは全く知らなくて、
大勢待機してる女性と毎日音楽を聴きながら体を動かせば
辛い雨の中や寒い日の散歩を強いられるよりよいと
車でダンスホール通いが始まったのである。
3ヶ月たった頃、どうして女性が右や左に回るのか不思議に思って
聞き出した頃、ホールマネージャーが
変えてはいけない女性を自分が責任取るから変えろと言う。
そこで紹介されたのが、現役のA級のプロの女性であった。
最初から3時間
一切休憩はとらされることなく音楽は鳴りっぱなしであるので
それにあわせてあらゆる種目を動かされその間中
彼女は「ホールド・ネック」などなどうごきながら言いっぱなしで、
それにあわせて私は「ハイ、ワカリマシタとかハイ、スミマセン」と
やはり動きながら返事するのが精一杯で
ワルツなどは股が裂けんばかりにリードされ、
慣れてきたらそのリーダーが彼女に代わり
女性役で私を引っ張ってくれた。
今思い出すとその熱心さにほだされたのと
激しい運動で血糖値がどんどん下がって
主治医もびっくり・・と負けず嫌いの私が取り組んで
ダンスの「ダ」の字も分からないので教室にも通い出し、
何しろ足が弱く、関節も硬いので、ジャズダンス・タップ、クラッシック・バレイも習わなければ
追いつく技ではなかった。
そこに月月火火木金金と踊り三昧の生活になった。
42、3歳頃よりこれをめざし昔武道館であった大きな試合だけでなく、
毎週のように後楽園の青いドームで開かれた試合を見に
数年朝早くから通ったが、
描きたいという気持ちと裏腹に、カップルの非常に複雑なラインがどうしても
つかめず、ヒールを履いて女性役もやる羽目になった。

 
 

 

10月

 

そう、ソシアルの1・2・3の「ワン」の時に初心者でも9つのポイントがあると聞いた。それは、正しい姿勢で立ち、音をとる、方向を決める、
フットワークを正確に等など・・もう少したつと「ワン」の中に15ポイント、
その当時トッププロは35ポイントだったそうであるから・・
今は当時と比べレベルが高く要求されるから、50ポイントもあるのだろうか?
数秒に満たない中に汗が飛び散るゆえんがここにある!
また、フラメンコ・アルゼンチンタンゴなどなどもモダンバレイと同じく見尽くしてきたが、
「競技」ダンスはであるだけに他の追従を許さぬ美しい世界で、
2人でするから難しく、奥の深い世界であったあった。「競技ダンス」を描きたいと思ったもう一つの魅力は試 合光景であった。そこには一見、子供の頃遊んだことのある「万華鏡」のような魅力が、しかし、決して同じ画面になることの無い・・
大勢の選手があちら、こちらにかたまったり、広がったりする変化に
一組の美しい踊りでは出せない違った迫力が・・

私に生涯のテーマとして「競技ダンス」が息づき始めたのである。
そうした難しさの中で通常の1点1点仕上げてゆくには、もう私にはこの困難さの前に対して時間が無いので、手持ちの数100点のキャンバスに情熱が消えないうちに全部手をつけて、それに繰り返し筆を重ねながら、
プロの細かい神経が張り詰めたことによる、
美しい動きを光景を画面に再現したいと思うからである。

 

 

お知らせしたい私の窒息死に近い状態の体験談

  
  東京に引っ越してから20年程前、ダンスのレッスンに東名を走らせて通っていたさい日本そばで昼食をすま せて いた折、
自分が意識して口に入れたのではなく
喉の中が勝手に動いてそばを引っ張り込む事がまれにあった
   それがすんなり喉を通ればお腹がすきすぎてそうなったと
笑って話もできるが、それがピタリと喉をふさいで喉が
   とても痛いので生唾を飲んでしばらく休んで
少しずつ残りを食べた。  
  

  その後も、東京でもしばしばあり水を飲んでやっと飲み込み
そんなに大量にかきこんだ訳でもないのに、どうしてこうなるのか、不思議と心配で神経科の先生に話しても分からなくて、
糖尿の薬と空腹状態の関係かとも思っていた。


  その状態がひどくなり、蕎麦が詰まっただけでなく余り苦しく痛いので、水を急いで飲んで流し込もうとしたら・・
その水が全く喉を通らず鼻から溢れ出たのである。
   一滴の水も通さないほど少量のそばを
喉の筋肉が吸い付いているのだ。
   急いでトイレに行き、指2本でかき回し吐き出して
命を取り留めた。


  そうした状態がごくまれにではあるが続いた時、
年末になるとお年寄りが、
餅を 喉に詰まらせて亡くなるという記事がよく見かけられたが・・・
   その死亡も単に詰まったこうした状態に何らかでなるのではないかと疑問に思っていたので・・・
       確信したのは4,5年前に、親友のお友達のご主人が当時45才くらいと思うがパーティで肉を喉に詰まらせて会場で亡くなり、
           駆けつけた医師が掃除機で中のものを出さねばならないと
言われたそうが・・・   
死人に口無しでどういう状態であったかは分からずじまいである。

 


50歳以上のホームページを見て

毎年、年末になると決まって賀状に備えて、訃報のお知らせが数通来る。
友人のお母さんも20年前にご主人ともご一緒にモロッコへ行った方だが、駱駝から落ちて肋骨を折り、帰国して外科医のご主人に治してもらったが、その後ご主人が胃がんで亡くなり、気力を無くされたのかみるみる弱り、私がお見舞いしても分からず、お世話している長女の事だけ分かって、彼女が献身的に介護して見えたがとうとう亡くなってしまわれた。

50歳以上のホームページを見たときそれにかかわるホームページをこれからゆっくり見て考えたいのだが・・・人はいつも忘れて過ごしがちだが死と隣り合せでいる。
上記の友人は母を見ることによって情愛の大切な喜びを知ったが・・・彼女は一人なのでその老後どうなのかしら・・・
でも、肉親を見取ったその方が何もしない人より、幸せな生き様と私は思うのだが・・・

 

   
  見ざる・聞かざる・言わざる
     

 

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